私の母は、83歳。
「人の運命は生まれた時から決まっている」
それが母の口癖だった。
昭和7年生まれで、一番輝いているはずの青春時代を戦争で奪われた世代だ。
当時は、男尊女卑の時代。
自分で人生を選ぶなんて考えることもできなかっただろう。
24歳で、父とお見合い結婚。
結婚式の前日、母の実母(私にとっては祖母)は病気で亡くなっている。
母の結婚式は葬式になった。
嫁いだ先(私の実家)には、父の両親、父の弟二人と妹が一緒に暮らしていた。
私にとっては、祖父母、叔父、叔母に当たる。
舅(祖父)はその時、病気で寝たきりだった。
昔は同居が当たり前、ましてや農家の長男ともなれば家族を背負っていくのはごく自然なことだった。
建てられたばかりの広くて立派な家とは裏腹に、結婚当時、私の実家には借金があったと言うう。
父で、九代目だと言うから、昔から続くそれなりの家柄だったのだろう。
それも祖父の長い闘病生活で廃れていったのだろうか。
私の母はそんなところにお嫁に来たのだ。
母の一日は、朝の4時に始まった。
農家の朝は早い。
しかも農繁期になると、本家の嫁は、分家からやってくるご飯の賄いから始まる。
誰よりも早く起き、十数人分の食事を用意しなくてはいけない。
しかも朝だけでなく、昼も夜もだ。
今みたいに、炊飯器もレンジもない時代だ。
もちろんまだガスさえもなく、かまどに火を起こして.作るのだから、
それはそれは、大変なことだったに違いない。
夜は分家が帰った後の片づけ、その後は、たらいで洗濯だ。
今のように洗濯機に放り込むだけとは違う。
当時は井戸水だったので、真冬は身もこうる寒さだっただろうに。
冬場の母の指は、いつもあかぎれで痛そうだった。
その頃の母の楽しみは、たまに実家に帰ることだけだった。
母の母親はすでに亡くなっていたが、それでも少しの時間だけでも、嫁ぎ先から離れることは、唯一の息抜きだったに違いない。
私が覚えているのは、母の実家に帰った時、いつも母はただひたすら寝ていたように
記憶している。
いつも心底、疲れていたのだろう。
父と母はよくケンカをした。
ほとんどがお金のことだ。
それでも母は父と離婚することはなかった。
当時は、そんな選択肢などなかった。
そして、
叔父と叔母を無事に結婚させ、結婚式から新居費用まで、父と母がその費用を出している。
それが家を継ぐ父の責任だったから。
祖母の言いつけだったから。
それだけならまだしも
私がまだ小学校の頃、テーブルに札束が積まれていたことを覚えている。
しかも2度。
今でいう財産分けだったのだろう。
その後、父と母に残されたのは、そう多くない田畑と多額の借金だったと言う。
それなのに祖母は母に気づかうことさえなかった。
祖父は、母が嫁いで3年ほどで亡くなったが、その後、家の権力は祖母が握っていた。
嫁姑の問題は、いつの時代にもあるが、昔は嫁が我慢するケースが多かったように思う。
叔父も叔母も祖母も母に意地悪だった。
父はいつも、見て見ぬふりで母をかばうことはなかった。
父の親族の中で母の味方をする大人は誰もいなかった。
そんな四面楚歌の中で、母は私たち子どもによく祖母の悪口を言った。
その度に私は、いつもいやな気持ちになった。
祖母は私には優しかったから・・・・・・。
それでも寝たきりの祖父も、後年痴呆になった祖母も最後まで看取ったのは母だった。
そして、その後すぐに、父も事故であっけなく亡くなった。
今は独身の兄と二人暮らしだ。
男手なので、行き届かない点も多いが、それでも一緒にいてくれるのはありがたい。
母は、痴呆ではないが、さっきしたことはよく忘れる。
老人ボケと言う奴だろう。
若いころ酷使したせいか、足腰もだいぶ弱り、もう一人ではお風呂にも入るのも
危なっかしい。
近くに住む姉は、よく様子を見に行って食事の世話などしてくれている。
感謝している。
私はと言うと、実家まで遠いことを理由に3か月に一度ぐらいしか行っていない。
いつも気になってはいるが、つい帰るのが延ばし延ばしになってしまう。
それでも、帰った時は、近くにある温泉に連れ出し、頭から足の裏まで全身を
洗ってあげている。
母は気持ちよさそうに私に身を任せる。
こんなことしかできない・・・・・。
中学の頃、口うるさい母によく反抗した。
ケチで、愚痴の多い母があまり好きでなかった。
優しくない娘でごめんね。
母の苦労を思うとやり切れないが、最近の母はよく笑う。
昔のことは忘れているのだろうか。
母の言う、「運命は生まれた時から決まっている」
そう思うしかなかった母の人生。
怒涛のような時間は過ぎ去り、今、母の時間はゆっくりと流れている。
どうか、母様、まだまだ元気でいて下さい。
私はまだ、親孝行が済んでいません。
これからは、もっと顔見せに帰るからね。