つつのんの気まぐれ日記

アラカン女子の複雑怪奇な頭の中を書いていきます。

祝辞も答辞も長い方がいいの?

昨日は娘の卒業式だった。

 

お母さんたちはコサージュ付きののワンピーススーツやフォーマルアンサンブルやパンツスーツなど皆、春の装いではあるが、その上には普段着ているであろうと思われる冬物のコートやジャケットを羽織っている人が多かった。

 

私も同じだった。

せっかく卒業式のために奮発して買ったスーツだけでは寒い。

羽織るジャケットは、スーツに合わない。

結果、ダサい格好になった。

 

卒業式って、おしゃれするには中途半端な季節よね。

 

中には膝かけまで持参している人もいた。

 

いくら3月といえども、前日まで2月である。

 

本当の春までまだまだだ。

 

式がある体育館の床はしんしんと冷えていた。

 

それなのに挨拶が校長先生から始まり、来賓祝辞5人もいた。

 

ありきたりの型にはまった祝辞はつまらない。

しかもつまらない話ほど長い。

 

校長先生はともかく、来賓者は子供達にとっては会ったこともないただのおじさんだ。

そんな人が人生訓などを語ったところで、子供達には意味はないように思う。

 

段々眠くなってきた。

半眠りの中で、覚えているのはダーウィンの進化論、第三次産業、グローバル社会など一見卒業式とは関係ない言葉。

 

どう考えれば、卒業の祝辞と関係あるんだろう。

ずい分と言葉を飾りまくった祝辞ばかりである。

 

だが、最後のPTA会長の祝辞は違った。

 

3年生の皆さんご卒業おめでとうございます。

皆さんはこれから新しい一歩を踏み出します。

どんな時も自分を信じて、しっかりと歩いて行ってください。

心よりお祝い申し上げます。

 

これだけかい?

 

あまりに短い。

 

素敵。

 

PTA会長は、この学校に通う子供の保護者でもある。

短いものの、声の響きに心がこもっていた。

 

だがこの後が長かった。

在校生の送辞は3分ぐらいで終わったものの、卒業生の答辞が20分以上は続いたのだ。

最初の5分ぐらいで終わりに向かうのだが、またそこから新しい話が始まり、その繰り返しが4回ほど繰り返された。

答辞を読む女の子は泣いている。

他は誰も泣いていない。

通常、卒業生の答辞は同級生や保護者や先生方巻き込んで、ちょっとした感動の卒業式を演出する。

事実、中学校の卒業式の時は、そういう場面が見られた。

 

答辞は、自分のこと、友達のこと、文化祭のこと、体育祭のこと、研修会のこと、先生への思い、親への思い、永遠に続くかに思えた。

 

前の席の人が、隣の人に

「長いね・・・・・」

 

隣の人は、友人なのだろう。

苦笑しながらうなずく。

 

私の隣に座っていた同じ中学校の同級生のお母さんも、しびれを切らしたのか、私に目で合図を送ってきた。

 

言いたいことは分かる。

 

早く終わって欲しい・・・・

日頃はかないスカートなだけに、寒すぎた。

 

一生懸命話す女の子を前に、とやかく言うつもりはないが、ただもったいないなと思った。

 

いいことは言っているのだから、うまく簡潔にまとめればいい答辞となるのに。

 

高校生にもなると、事前に先生の添削は入らないのだろうか。

 

何でもかんでも詰め込みすぎて、何を言いたかったかが分からなかった。

 

何事もホドホドがいいのかもしれない。

 

 

 

最近の結婚式などになると、仲人もないケースも増えて、挨拶もずいぶん省かれオリジナリティ―あふれるものになってきている。

 

君が代、校歌、長い祝辞、送辞、答辞。

卒業式は何十年も前とほぼ変わらない。

 

伝統を守ると言えば聞こえはいいが、学校というのは最も変化に弱い場所なのかもしれない。

 

それが、いいかどうかは分からないが・・・。

 

娘の最後の卒業式は終わった。

 

なんか寂しい。