前回、しゃべらない女性のことを書いたが、ふとあることを思い出した。
すっかり忘れていた。
多分、前回のブログを書かなければ、彼のことを思い出すことはなかっただろう。
私は遠い昔に、もう一人しゃべらなくなったある男の子に出会っていた。それは、小学生の時だ。もう、数十年も経っているので、どれだけ正確に書けるか分からないが、記憶をたどってみたいと思う。
小学校三年生の時、私はそのT君と同じクラスになった。もうすでに、T君はしゃべらない子として、先生にも周りの子にも扱われていた。
小学校に入った時、子供だった私達がまず教えられたことは、大きな声で返事をすることだったと思う。
私は、一年の時はT君と同じクラスではなかったので、その光景を見たわけではないが、入学してすぐ、初めて先生が出欠を取った時、T君は誰よりも元気に大きな声で返事をした.。その返事の仕方が、とてもおかしかったらしく、先生もクラスのみんなも大声で笑ったと言う。それがしゃべらなくなった理由だと、みんなが言っていた。
時々同級生の男の子が、「ハ、ハハ、ハ、ハイ!」などと言ってT君をからかっていた。その度にT君は顔を真っ赤にして、そのからかった男の子に立ち向かっていった。T君は体が大きく力も強かった。だから、しゃべれない分手が出るのが早かった。つい相手を叩いてしまうのだ。それで、T君は先生によく怒られていた。
私が一番真っ先に思い出すのは、顔を真っ赤にして怒っているT君だ。しゃべらないT君だったから、不幸な小学校時代だっただろうと思いがちだが、そうとばかりも言えない。不思議だが、私は、怒っているT君の顔も覚えているが、それともう一つ、ニコニコしているT君の顔も思い浮かぶのだ。なぜか二つの顔の記憶がある。今なら考えられないことだが、彼は普通に友達と缶蹴りをしたり鬼ごっこやドッジボールなどして遊んでいた。
当時の遊びに、言葉はいらなかったのかもしれない。
だが、それも小学校までだ。さすがに中学校となると、しゃべらないことは大きく友人関係に影を落とす。放課後、校舎の窓から、一人運動場を眺めるT君を何度か見かけた。当時は、ほとんどの子が部活動をやっていて、多分それを見ていたのだろう。もともと、走るのが早かったから、運動もできたはずだ。彼はあの頃、窓の向こうの同級生を見て、何を思ってたんだろうね。
別に私が、、彼のことを特別な目で見ていたわけではないので、うっすらとした記憶ではあるが、あの頃の私たち同級生は、誰も彼のことに無関心だったと思う。そして、先生も・・・・・。
私の彼の記憶はそこまでだ。でも、誰も行かない遠くの高校に行ったことは聞いた。意外なことに、それを教えてくれたのはうちの母だった。T君の家は、私の家から歩いて15分ほどのところにあり、親同士のつながりがあったようだ。母は、T君が吃音であることも知っていた。私は、その頃、吃音の言葉も知らなかったが、小学校の時、「ハ、ハハ、ハ、ハイ」と言って、からかわれていたT君を見ていたので、何となく想像がついた。
だからしゃべらなかったのか・・・・・吃音だったから?
もちろんそれもあるだろう。でも決定的なものはもっと以前に起きている。
小学校で初めて、先生が出欠を取った日、T君は大きな声で返事をしたはずだよね。
Tくんは、その瞬間まで、自分の発する言葉が同級生たちに受け入れられないとは、つゆにも思わなかったはずだ。
でも、みんな大声で笑った。
その笑い声は、T君の小さな心にどのように響いていたんだろう。
彼はこの時、言葉を失った。
もちろん、周りの同級生に悪気などなかっただろう。
子供の世界って、ある意味大人が思う以上に残酷だ。
誰も悪くない世界に、被害者を作り上げるのだから・・・・。
あの時、担任の先生は一緒に笑ったと聞いていたが、それが事実ならひどい先生だ。
吃音であることと、しゃべらないことには大きな開きがある。
最近は、公立の学校にも発達障害の子のための支援クラスなどが設けられ、先生達にも、少しずつこれらに対する理解も進んできたようにも思う。だが、まだまだ充分とは言えない。
ハンディーを持った子には、大人のサポートが絶対不可欠だ。
吃音であっても、周りに優しい目があれば、T君は自分の意思を伝えることができたはずだ。吃音であっても、周りに優しい目があれば、T君がしゃべることを恐れることはなかったはずだ。その機会が奪われたことは、やっぱり不運だったとしか言いようがない。
数十年も経って、今更ながら、当時のT君を思いやったところで、無意味である。
彼は、今どうしているのだろう。
言葉を取り戻しただろうか。
それを知る手掛かりはないが、
どうかT君が、優しい目に囲まれていますように!